はじめまして。
名古屋の(自称)美人カウンセラー はやしあきこです ^^


1973年3月、愛知県生まれの名古屋育ち、魚座のB型。動物占いはクロヒョウです。
1度の離婚(1993年 – 1994年)と1度の死別(2003年 – 2017年)を経験しましたが、懲りることなく3度目の結婚に向けて1年ほど婚活、2020年8月より、マッチングアプリ y o u b r i d e で知り合った彼(通称・総理さん)と結婚前提のおつきあいをしています。
恋が実る結婚相談室は、私ひとりで運営しています(総理さんはサラリーマン)。
趣味はお裁縫、パン作り(資格あり)、DIY(サロンも一部自分でいじってます)。

肩書きはいろいろ。
・元メイクアップアーティスト(シュウウエムラメイクアップスクール出身)
・顔ヨガ協会認定アドバンスインストラクター
・日本傾聴能力開発協会認定傾聴1日講座®︎講師・傾聴サポーター®︎・傾聴心理士
・リコレクトメンタルアドバイザー
・日本仲人連盟結婚アドバイザー
・ヨガニードラ・セラピスト
・メンタルヘルスケアヨガインストラクター
・アロマ検定1級
・ボランティアセラピスト1級
・ハワイアンロカヒロミロミセラピスト レベル1
・ホオ・ロカヒ(ヨガ)数秘学 レベル2
etc.

— ここから先は長くなりますので、興味のある方はお読みください。

お見合い結婚した両親の元で、第2子長女として生まれました。2つ上の兄がいます。
母と、父方の祖父の誕生日に生まれたという偶然。
昔は戸籍も適当に出生届を出せた事もあり、本当か?と疑いたくなりますけど、とりあえず私は母子手帳の誕生日と一致していました。

2歳くらいの頃、おんぶされながら母が掃除のお仕事をしていた記憶があります。
母方の祖母が他界したばかりで、尚且つ父は転職を繰り返すなどで生活に余裕がなく、母は幼子をふたり抱え、大変な思いをしていたと思います。

上に兄がいたせいか?おてんばでわがままな子供でした。
おもちゃを買ってもらえないと、ところ構わずひっくり返って泣き叫んでいました。苦笑

4歳の頃、男の子と遊んでいて額に5針縫う大怪我をし、救急車に初めて乗車。
「病院には送ってくれたのに、どうして救急車はおうちに送ってくれないの?」

と、とぼけた質問を母にしながら歩いて帰りました。笑

ある日は母の運転する自転車の後ろの車輪に足を突っ込んで大怪我。松葉杖を使えないので幼稚園児なのにハイハイの日々も( ˙-˙ )

生傷の絶えない女の子でした。

同じ団地に住む同級生の男の子にスカートめくりをされてまいにち泣く。
あるとき、母とお風呂に入っているとき、母にこう言いました。
「あのね〜〇〇君がいっつもあきちゃんのパンツめくるの!」
スカートという名称を知らなかった私は、パンツと言い換えてしまったものだから、本気にしてしまった母は男の子のお母さんに報告。男の子、お母さんにめっちゃおこられました・・・面目ない(´・_・`)

幼稚園のお遊戯会では、フリフリのドレスを着る主人公のお嬢さま役に憧れるも、私は後ろでぴょんぴょん跳ねる引き立て役のうさぎちゃん。もじもじくんのような白い全身タイツに耳がついただけのちょうダサイうさぎはいやだった・・・今卒園アルバムを見れば、可愛いんですけど。笑

幼稚園卒園後は父の転職の都合で引越。気まぐれで思いつきで動く両親に振り回され、それから3〜4年おきに引越と転校を繰り返しました。

小学校二年生になった頃、突然親が学校に来て

「体育の授業はこれをはけ!」

と言って、ブルマを持ってきました。

まだみんな半ズボンだったから恥ずかしくて嫌がりましたが、ちょうど別のクラスメイトの女の子がブルマを持っていたので一緒に履くことになり、そこから急に女子はみんなブルマになりました。

いつからブルマが無くなったかはわかりませんが、女子にとってブルマは常に恥ずかしいものでした。

小学4年生になってすぐ、また転校しました。
その辺りから、いじめの対象になり、母との関係が悪くなっていきました。

お友達と遊びに出かける事も許されなくなり、仕方なくずっと家に篭る放課後。

兄が遊びに行っても、私はダメと言うことが理不尽でした。

成長のたびに新品の自転車や服を買ってもらう兄に対して、私は全て兄や近所の子のお古。
切なかったのは、同級生のさほど体格も変わらない女の子が買い換えたからと、低学年サイズのお古の自転車をあてがわれたこと。

5年生の時、母の日のためにお小遣いでカーネーションを買いに行きました。

とても綺麗な白で、白い色が好きだった母が喜ぶと思ってドヤ顔でプレゼントしました。

そしたら、母の顔がみるみる真っ赤になり、怒鳴ってこう言いました。

「死人の色だからね!!」

当時の私には、まるで意味が分からず、ただただ困惑するだけでした。
大人になって、ふと思い出してネットで調べたら、白いカーネーションは亡くなったお母さんに贈る色なんだそうで。

その頃、アイドルの岡田有希子さんが自殺されました。

親が喫茶店を経営していたので、週刊誌や雑誌が読み放題だった私は、岡田さんが倒れている生々しい写真を見て
その頃からちょっとずつ「死」というものを意識するようになりました。

自分が死んだら、悲しむかどうかよりも
自分の死体を見て、親はどう思うだろうとか、それを見てみたい気持ちがありました。

今考えるとちょっと自分の子がそう感じていたら恐ろしいですね…。

今は見ることはないですが、昔は規制がなかった分、ひどい画像があふれていたように思います。

中学生になり、いじめがエスカレートするものの、母の干渉も併せてエスカレートして行ったので、行き場がなくなりました。

3年生の夏休みに差し掛かる頃にもかかわらず、両親がマンションを買って引っ越すと言い出し、転校を余儀なくされました。

転校先の通学途中に痴漢に襲われ、家に警察が来て尋問にあい、母は知らん顔。学校は全体集会で注意喚起する中、私が被害者であることをさらされ、学校にいることが嫌で仕方ありませんでした。

登校拒否したくても母が家にいては気も休まらないので、学校へ行ったフリをしてマンションの死角で下校時間まで縮こまっていたこともありました。

強制的に登校させられたときには、母のパートの出勤曜日や時間が来るとこっそり早退して家に帰っていました。

頭が良くなかったので高校は選べませんでしたが、頭の割にはいい方の学校に入れました。笑

でもスパルタ並みの厳しい学校で、よく先生に反抗しては殴られていました。

今だったら大変なことですけどね。

高校時代が気が遠くなるほどいちばん時間が長く感じる日々でした。

死にたいとかそういう感情はなかったですが、いちばん楽しくなかったです。

普段の門限は18時だし、部活終わってお腹すいて帰ってきても晩ご飯が出てくるのは23時を回るし。

母は先に何かを食べているとめちゃくちゃ怒るので、待つことしかできませんでした。

進路も進学希望をとことん無視されました。

母の言い分は「女は学歴はいらない。事務職で腰掛けて結婚して専業主婦がいちばんの幸せ」でしたから。

母が小学生の頃から私を外に出させなかったのは、世間を知らずに生きて、何もわからないまま嫁いで
専業主婦として幸せに生きて欲しかったからなんですね。

生じっか世間を知っているとろくなことないと、自身の経験から結論つけたのだと思います。

母の言いなりにだけはなりたくなかった私は、とにかく反抗し続けました。

後から母にも言われましたが「あの時のあきこの目は怖かった」。

だって母を憎んでいるもの、当たり前ですよね。

20歳になったらとにかくやりたいこととことんやってやる!という意気込みと気合だけはものすごくあったので

その辺りからはタガが外れたように生きていました。

細かいことは本当に恥ずかしくて言えないことばかり・・・(〃ω〃)

大人のみなさまに、めちゃくちゃ迷惑をかけているのに全く悪びれもない不良少女ならぬ、不良成人、いや、不良星人?

迷惑をかけまくってこその、今のはやしあきこです。ありがたやありがたや(^人^)

20歳で、初めての結婚をしました。

6歳年上のバツイチ男性(!)
黒いギター弾きのひとと同じ名前でした。笑

でも、世間知らずの小娘のママゴト婚ゆえ、すぐに離婚することになりました。

それからはまた、20代を謳歌する日々。

24歳のとき、メイクの勉強をしてすぐに独立しました。
それだけで食べていくことはできませんでしたが、20代の中でいちばん楽しかったです。

そして、ここで事件が起きます・・・

27歳の時、仲の良かった友人が自宅マンションから飛び降りて亡くなってしまったのです。

3日前から、ずっと電話を鳴らしていて、でも出てくれなくて。

いつもなら、折り返しの遅い子だからと一度鳴らして出なければ待つだけだったのに
なぜかその時だけは、私は彼女の携帯をまいにち鳴らし続けました。

4日めのクリスマスの夕方、共通の友人から「彼女が亡くなった」との連絡が。

そこから私は自分を責め続ける日々でした。

家に行けばよかった、もっとしつこく電話すればよかった。

彼女の自殺の原因はわかっていましたから、尚更。

彼女の初盆は地元の熊本で行われていたのでその時は行けず。納車して間もないヴィッツRSで翌月、母を連れて名古屋から熊本へ飛んで行きました(!)

往復2000キロの旅。よくひとりで走りきったもんだ。笑

お坊さんに「これが彼女の寿命だったんですよ」と言われても、全く納得できませんでした。

その帰り、親戚がいる山口に立ち寄り、高速道路に乗ってしばらくしたところで
あのアメリカの同時多発テロが起きました。

次々と高層ビルが倒れていく様が、今でも夢の中の出来事のようでした。

今は亡き夫と出会ったのは、28歳の時でした。

出会ったのは、日本で初めて開設されたマッチングサイト「 a c c h a n . c o m 」でした。
(この辺りのお話は、stand.fm で話していますので、よかったらお聴きくださいね。)

メイクの学校へ行く際に貯めた400まんえんを使い果たし、その後売れなくて貯金もできていなかったので
2〜3年のお付き合いを経て結婚できれば、と思っていましたが
亡き夫はすぐにでもしたい、ということで、私は結納なしの100万円たらずでお嫁に行きました(情けない)。

この結婚はものすごく苦労しましたが、結果的に今までの私の生き方が引き寄せた、なるべくしてなった結婚生活でした。

私の両親が過干渉であったように、亡き夫の両親も同じでした。

うちと違ったのは、私が徹底的にいうことを聞かなかったのに対し、亡き夫は全ていう通りにしていた、というところ。

亡き夫はお人形扱いが当たり前の家に嫁いだ私。もうみなさまも想像がつくことでしょう。笑

その根底にある原因は、結婚13年目の当日に知ることとなりました。

え、まさか、それがオチですか?!という、頭に100トンハンマーで殴られたような衝撃でした。

そこはまた、追々話すとしまして・・・(というか、聴きたい方は無料相談にいらしてくださいね。こっそりお教えします( ̄▽ ̄))。

その原因がわかる直前までは、正直離婚を考えていました。
でも、諦めなくてはならない。添い遂げないと・・でも私は苦しい。

そんな自問自答を繰り返していた44歳の初夏。

突然、余命0日宣告を受け、夫は他界してしまうのです。

強制的に独身にされてしまった私。

何がいちばん困ったかというと、あなたは未婚ですか?既婚ですか?と言われた時どちらを選ぶのが正しいのかがわからなかったことです。笑

・・・なんていうのは半分冗談ですが
本当に困ったのは、夫亡き後の義理の両親との関係。

嫁は使用人扱いだった(年賀状も私の名前は省かれ、いつも夫と娘宛でした)ので、どう私を取り扱えば面倒をこの先見てもらえるのか、いろいろ考えていたようですが、使用人ゆえにどうしても頭を下げたくない気持ちが強かったみたいで、遠回しに「私たちと一緒に納骨堂の中に入って」とか言われてましたね。苦笑

お金は渡したくないけど面倒見てくれるのは当たり前でしょ?みたいな感じだったので
(別にお金は欲しくなかった、むしろもらったらコワイ)
こっそり姻族関係を終了して、ある時それを伝えたら怒り、反逆されました。

今も解決はしていませんが、時間がなんとかすると思ってやり過ごしています。

亡き夫の地元を離れ、老いた母も心配だったので名古屋に戻ってまいりました。

その後、程なくしてマッチングアプリ youbride で知り合った彼(通称・総理さん)とのお付き合いが始まり
彼のお子さまふたりも含めて仲良くさせていただいてます。

いつとはまだ決められていませんが、時期をみて結婚できたらいいね、とお話ししています。

総理さんの支えもあり、サロンドマカロンは少しづつ前進しています。

緊急事態宣言も複数回あり、動けない部分も沢山ありますが、今はできることを出来る限り楽しみながら頑張っています。

私が2度も結婚したのにしくじったのは、きちんと自立しないままの結婚だったからです。

結婚は、ふたりにとっての独立です。
親御さんは人生の先輩なので、敬ってしかるべき存在です。
親御さんの生きてきた道を否定せず、自分たちらしい道を生きることが理想ではありますが、その狭間で若いひとは悩み苦しむことも多いと思います。

義親の過干渉が原因で亡き夫と一時的に別居したときには、いのちの電話にかけて話を聴いてもらった事もあります。
話を聴いてもらうことで救われる思いは確かにありました。

私は亡き夫が遺してくれたお金をもとに、傾聴やヨガを学び続けました。
生きたくても生きられなかった夫の思いを私の糧にしたくて。

この学びは、私に大きな幸せを与えてくれました。
そして、許せなかった自分を許し、親を許し。徐々に心楽に生きるスキルを増やしつつあります。

夫亡き後、心と身体のバランスがなかなか取れず、地団駄踏んでいた私ですが
今はたくさんのひとに支えられ、幸せに満ち溢れたまいにちを過ごしています。

本当に困ったときに手を差し伸べられる人間でありたいと、今はそう思います。
でも、その前にもっと、気軽に相談に来て、話をたくさんすることのできる場所を提供するべきとも思います。

私が婚活男女の相談に特化したのは、今は見えていない幸せを手に入れて、それをご自身のお子さまや周りのひとに分け与えられるほどの幸せを感じてもらいたいと思ったからです。

幸せも、不幸も、どちらも伝染する。だったら、幸せなほうがいいじゃないですか。

幸せなひとの周りが幸せになれば、その周りのひとがまたひとを幸せにして、幸せのめぐりがよくなります。

私の傾聴の師匠である、一般社団法人日本傾聴能力開発協会( j k d a . o r . j p )代表の岩松正史氏が掲げるスローガン
「100年後の子供たちがいまよりもっと自然な笑顔で暮らしている日本をつくりたい」
の根幹を作り上げる思いで、私はサロンドマカロンを運営することにしました。

サロンドマカロンのミッション。それは

「幸福度の高い人が あふれかえる名古屋へ」

名古屋を皮切りに、幸せの伝達をして行けたら。という思いでこれからの人生を謳歌してまいります。

2021.7 はやしあきこ

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